服部半蔵は忍者ではなかった!?
服部半蔵とは何者なのか?
半蔵門の由来
服部半蔵とは通称?
映画やテレビでおなじみだった千葉真一さん主演の「影の軍団」シリーズで
有名になった「忍者 服部半蔵」ですが、この「服部半蔵」という名は、実は
服部家の歴代当主を指す通称だったということをご存知ですか?
歌舞伎の世界と同じく、代々「半蔵」という名が受け継がれていたそうで、
特定の一人を表す名前ではなく世襲制の役職ということです。
服部氏というのは、伊賀の出で、百地・藤林に並ぶ伊賀忍者の頭目でした。
遡れば、服部氏の祖先は、聖徳太子が大伴細人と共に使っていた「志能備」で
あったと言われています。
この「服部半蔵」として、最も有名なのが二代目の服部正成(まさなり・まさしげ)
ですが、彼は、忍者ではなく武将として活躍した人でした。
歴代の服部半蔵の中で忍者だったのは、初代の保長だけだと言われています。
この保長が、三河国に渡り、家康の祖父である松平清康に仕えるようになりました。
正成は保長の四男として、三河国伊賀(現在の愛知県岡崎市伊賀町)に生まれ
16歳で初陣を飾りました。
父から家督を継いだ正成は、家康のもとで「掛川城の攻略」「姉川の戦い」
そして、「三方原合戦」でも功績を収めていきます。
徳川十六神将の一人にも数えられており、「鬼半蔵」の異名とともに、
服部正成が得意とした槍で「槍半蔵」とも呼ばれる猛将であったそうです。
正成になぜ忍者のイメージがあるのか?
忍者としての「服部半蔵」のイメージに最も寄与したと考えれているのが、
家康三大危機に数えられる「伊賀越え」です。
この伊賀越えは、本能寺で信長を討ち取った明智光秀が、家康・秀吉などの
有力武将を討ち、天下を取る準備に入っていた時のことです。
堺から京都に向かっていた家康は、本能寺の変を知り、一刻も早く自国へ
帰らなければならなくなったのです。
この時、家康が連れていた家臣は、わずかに30人程度。
家康は、明智光秀の追っ手と賞金目当ての地元士豪たちの襲撃に会わぬように
帰途を急ぐという離れ業をしなければならなくなったのです。
この時に家康を助けたのが、伊賀忍者の頭領としての「服部半蔵」正成だったのです。
正成は、伊賀忍者頭領としての立場を活用して、道中の警護を伊賀忍者に
行わせ、伊賀忍者しか知らないルートを通らせて、家康一行を安全に早急に
三河に帰国させたのです。
この功績によって、信長によって離散していた伊賀忍者たちを家康が同心として
召し抱え、伊賀忍者たちを正成が統率することとなったのです。
正成は、「小牧・長久手の戦い」で忍者100人を指揮して豊臣方を
撃退するなど、統率力を発揮します。
その後も、与力30騎とともに、伊賀同心200人を付属され8000石を拝領。
伊賀衆・甲賀衆の忍者たちを統率する立場となった正成は、忍者の頭領として
世にその名を轟かせていったのです。
後に江戸に徳川幕府を開くことになった際には、伊賀同心たちは服部半蔵の下で
江戸城西門の警護を行うようになります。
これが、現代にもその名を残す「半蔵門」の由来なのです。
初代服部半蔵で忍者であった父、保長からその名を継ぎ、家康のもとで
戦国武将として仕えた正成は、忍者たちを率いて数々の武功を上げ、現代に
つながる「服部半蔵」像を作り上げました。
正成自身は、忍者ではなかったわけですが、忍者の血筋が服部半蔵の名を
押し上げたのは間違いないでしょう!
そんな正成が没したのは、慶長元年(1597年)のことでした。