日本初の国産アルミホィールは浜松から
遠州軽合金 鈴木健次さんの挑戦
本田宗一郎との出会いが、、
浜松には日本初というものが数多くありますが、その中の一つである
「日本初の国産アルミホィール」を作った鈴木健次さんを今回はご紹介します。
現在のエンケイ㈱の前身である遠州軽合金 創業者の鈴木健次さんは、零戦で有名な
中島飛行機の浜松工場のアルミ鋳造技術者でした。
終戦後、GHQ指令により飛行機製造は禁止され、中島飛行機は消滅。
ゆたんぽやリヤカーの車輪などの日用アルミ製品製造に転身していましたが、ちょうど
このころ湯たんぽの製造技術を使ってガソリンタンクができないかと考えていた
本田宗一郎の目にとまりオートバイ部品の製造を始めます。
その後、遠州軽合金を設立し事業を成功させます。
その頃アメリカではアルミホィールが大ヒットしていたそうです。
鈴木さんは当時日本では、誰も手掛けていなかったアルミホィールの製造に挑戦し、
昭和41年(1966年)に国産初のアルミホィールを完成させました。
翌年には、量産化にも成功し、輸出が開始されました。
このビジネスは大成功となり昭和45年(1970年)には年間3万本を輸出するまで
の規模に拡大したそうです。
それまで車のホィールは鉄で出来ていましたが、それをアルミ合金で作ることにより
軽量かつデザインにも優れていました。
実用面でも、ハンドリングが軽快になるなど利点が多くありました。
現在では、エンケイのアルミホィールは、F1レースなどでも使用されています。
考えてみますと、同じ時代に本田宗一郎という人が浜松にいなかったら、ここまでの
成功はなかったかも知れませんね?
想像をするしかないですが、本田宗一郎の伝記を読むと、ホンダを始めた当時から
本田宗一郎という人は、技術に対して一切の妥協をしなかったと言われていますので
当時の鈴木健次さんも、本田さんから、相当な難題を持ちかけられたのでは
ないかと思われます。
その過酷な要求に応え続けていた鈴木さんの技術が、いつの間にか世界レベルになって
いったのではないでしょうか?
寝食も忘れて必死に取り組んでいる姿が浮かぶようです。
ある意味、羨ましい時代でもあったかも知れません、、。