家康の命を救った忠臣 夏目吉信
夏目吉信と徳川家康との絆について
徳川家康の身代わりとなって討ち死にした武士
当社から、そんなに離れていない犀ケ崖古戦場のほぼ向かい側に
「夏目次郎左衛門吉信の碑」が建立されています。
碑の説明文には、「家康公の身代わりとなった勇猛な家臣」とあります。
今回は、この夏目吉信という侍について調べてみました。
夏目吉信は、徳川家康の古くからの家臣でしたが、1563年の三河一向一揆の
時に、一揆側に加わって家康と敵対したことがあるのです。
その日、ある寺に籠城していた吉信らは、松平伊忠(これただ)隊に不意に攻め
寄せられ、木戸を突破された後、やむなく、彼らは金蔵に隠れますが、
すぐに包囲されもはや逃げ道もなく、万事休すの状態でした。
松平伊忠は、家康の命令があり次第、攻撃する準備を完了していました。
そこに家康から届いた指令は、
「そんな状態で殺すなんて、籠の中の鳥を殺すようなもの・・・もう、助けてやれ」
伊忠は家康の処置は寛大すぎると不満でしたが、主君の命には逆らえず
兵を退き、その場を立ち去りました。
まさか助かるとは思っていなかった吉信は、岡崎城に向かって平伏しました。
その後、吉信は家康を裏切ったことを恥じ、一向宗を捨てて改宗し、再び家康に仕えた
のです。毎朝、仏堂に入って「自分を主君のお役に立たせたまえ」と祈ったとのこと。
それから、約10年後、ご存知の三方ヶ原の戦いが起こります。
吉信は浜松城の留守居役でしたが、味方の敗報を聞くと、わずかな手勢25騎と共に
駆けつけます。
吉信は家康に退却するよう進言しますが、家康は聞き入れず、決死の突撃を敢行しよう
としました。
そこで、夏目は、説得を諦めて、強引に家康の乗馬の向きを変えて、刀のむねで打ち
浜松城へと奔らせました。
そして、家康を逃がすために、25騎を率いて武田勢の追手に突入して奮戦。
身代わりとなって討ち死にしました。享年55歳でした。
また、一説にはこの時、家康の兜を脱がせて、自らの兜と交換したともいわれています。
そして、吉信は周辺の騎馬も引き連れ、「我こそは徳川家康なり」と叫び、
武田軍に向かって突撃し全員討ち死にしたとも伝えられています。
それから数十年後、大坂の陣に勝ち、家康は天下をとりました。
そのとき、家康は吉信の息子を呼び寄せます。
この時、吉信の息子は家臣同士の争いで人を斬って、徳川家から逃亡中でしたが、
大坂の陣の時に内緒で帰参していました。この事実を家康は知っていて、
呼び寄せたのです。罪が赦されたわけではないので、成敗される恐れもありました。
「今日のわしがあるのも、そちの親父のお陰。お主の親父のお陰で天下がとれた」
そして、家康は跡継ぎの秀忠の家臣として、吉信の息子を抜擢し、夏目家の再興を許し
吉信の忠義に報いたといいます。
ちなみに、この再興した夏目家の子孫から文豪・夏目漱石が出ています。
日本の文豪・夏目漱石も、もし一向一揆の時に家康が吉信を許さなかったら、、また
もし吉信が家康の身代わりとなってなかったら生まれていなかったのかと考えると
人とのつながりって、、、深いです!