浜松にある「ビルマゆかりの碑」
ビルマゆかりの碑の碑文全文
鈴木大佐とアウンサン将軍との関係
鈴木敬司少将への感謝状
現在のミャンマーは、国軍がクーデターを起こし、国際社会から非難を浴びている
ところですが、そのミャンマーと浜松との間に、強い絆があることをご存知でしょうか?
浜名湖を一望する高さ113メートルの大草山の頂上に「ビルマゆかりの碑」というのが
あります。
「独立の父」と呼ばれるアウン・サン将軍は1940年ごろ、この舘山寺温泉に数か月間
潜伏し、独立に向けた計画を鈴木大佐と練ったと言われています。
このアウン・サン将軍というのは、アウンサンスーチー国家顧問のお父さんです。
では、さっそくこの碑文に書かれている全文を見てみましょう。
≪碑文≫
この碑はビルマ国民に建国の父と仰がれるオンサン将軍が去る昭和十五年わが国に
亡命して当地出身の鈴木敬司陸軍少将と共に祖国独立運動の秘策を練ったこのゆかりの
地に建てられたものであります
太平洋戦争間彼の苛酷なビルマ戦場で幾多春秋に富む若い身を祖国に捧げ散華された
諸英霊は当静岡県出身者のみでも二千七百余柱に及んでおります
今日のわが国の隆盛が一途に祖国の安泰と平和をこい願いつつ散華された尊い英霊の
犠牲とそのご加護の賜である事は片時も忘れることができません
ここに同志相図り静岡県及び浜松市ならびに関係市町村当局の御協賛を得てビルマ
ゆかりの碑を建設しビルマ方面で戦没された諸英霊をお慰めすると共にオンサン将軍の
史実を長くここに留めビルマとの友好を期する次第であります
なお碑面のビルマ語は駐日ビルマ連邦大使ウチコーコー閣下の撰になり
「ジャパンバマーチチエーテミエバセー」と発音し「日緬永遠の友好を!」の
意味であります
昭和四十九年五月十二日
ビルマゆかりの碑建設委員会
会長 飯田祥二郎
(碑内の「オンサン将軍」とは、アウンサン将軍のことです。)
この浜松出身の鈴木敬司大佐は
戦争中、日本軍の秘密組織「南機関」で、英植民地であったビルマを攻略する工作を
担います。
アウン・サン将軍らビルマ人30人のナショナリストの若者に対し、徹底的な軍事訓練を
日本や中国・海南島、台湾で行い、反英組織・ビルマ独立義勇軍の結成につなげたと
いうことです。
この独立義勇軍は、のちにミャンマー国軍の母体となります。
(国軍では、いまも日本の軍歌が歌われており、ミャンマー国軍の軍服は
日本軍とほぼ同じ制服なのだそうです)
しかし、戦争中ですので単なる美談なわけはありません。
その後、対英共同戦線を張った日本軍とビルマの若者たちは、英国をビルマから
駆逐したあと、独立問題をめぐって対立し、決裂します。
鈴木大佐は任務途中で解任され帰国。
ビルマ独立義勇軍は抗日クーデターを起こして日本兵を多数殺害しつつ、
独立闘争を展開しました。
総じていえば、ミャンマー人が感じる恩義は、鈴木大佐を含めた当時のビルマ独立を
本気で助けようと考えた一部の日本人に対するもので、ビルマの若者を反英戦争の
駒として利用しようとした日本という国家に対するものではなかったということです。
その証拠に終戦後、「南機関」を率いた鈴木敬司大佐が見せしめのためにビルマに
連行され、ラングーン刑務所に収監された時のことです。
BC級戦犯として裁判にかけられそうになったとき、アウンサンは
「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か」と猛抗議し、鈴木氏を釈放させること
に成功します。
1981年には、南機関の関係者6人にビルマ最高の栄誉「アウンサンの旗」勲章を授与し
ビルマ独立の礎を築いたその偉業を称えました。
この勲章が授与された時には、既に鈴木氏は他界していました。
代わりに出席した鈴木夫人は、ある書状を携えていました。
それは、1942年に鈴木大佐が任務を終えてビルマを去る際、アウンサンら独立の志士
から手渡された感謝状でした。
最後にその感謝状の全文を記して今日のブログを終わります。
「父親が子供に教え諭すがごとく、その子供を守るがごとく、雷将軍(鈴木敬司氏)は
真の愛情をもって、ビルマ独立義勇軍の兵士全員を教え、全員をかばい、全員のことに
心を砕いてくれた。
ビルマ人は、その老若男女を問わず、このことを忘れることは決してない。
われらは、ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人を末永く
懐かしむ。
将軍のビルマ国への貢献も、いつまでも感謝される。たとえ世界が亡ぶとも、
われらの感謝の気持が亡ぶことはない」
(展転社「アジアに生きる大東亜戦争」より)