浜松の太平洋戦争による被害について
浜松の太平洋戦争による空襲被害について
これが75年前の出来事とは?
ブログネタを探していましたら、「浜松情報Book」の中に太平洋戦争による
被害という記事が載っていました。
恥ずかしながら映画やテレビ番組などで観るのは、「東京大空襲」などばかりで
地元浜松については、あまり知りませんでした。
そこで反省も込めまして今回は、「浜松情報Book」の記事を抜粋して
浜松の太平洋戦争による被害を皆様にも、ご紹介したいと思います。
「太平洋戦争で、浜松上空に敵機が現れたのは1944(昭和19)年11月。
同年12月7日東南海地震が起き、打撃を受けていた上に、12月23日浜松で最初の空襲を
受け、佐藤町方面が焼夷弾攻撃の被害にあった。
1945(昭和20)年になると一段と攻撃が強まり、1月には馬込川左岸の東部工業地帯
(植松、神立、天神町方面)、2月には南部工業地帯(砂山、寺島、海老塚)が
攻撃された。
その後空襲地域が市の中心部に移り、浜松駅が全焼。旭町、中沢町、元浜町、砂山町に
まで被害が及んだ。
6月17日夜11時50分過ぎ、鴨江町、栄町、利町から火の手があがり、一夜にして全市が
火の海となり、18日未明に鎮火。
浜名・引佐・磐田の連合義勇隊が炊き出しや道路障害物の除去、死者発掘等に力を
貸した。
7月29日には夜9時45分頃から遠州灘からの艦砲射撃で多くの被害がでた。
被災状況は、特に軍事基地があった三方原や、天竜川鉄橋や高射砲陣地などがあった
中野町、和田、飯田などの被害が大きかった。
1945(昭和20)年浜松への空襲は8月1日が最後。
8月15日天皇の詔勅放送の翌16日は抗戦を叫んで、三方原飛行基地の有志軍人が決起し
水窪山中に陣地を造り抗戦するという計画が持ち上がったが、一週間もたたないうちに
自然解散となった。
データ
警戒警報340回
空襲警報76回
被災戸数31000戸(当時の3万4000戸の88%)
被災人口12万人(当時の人口18万7000人の64%)
死者2947人
重軽傷者1702人
1942(昭和17)年陸軍墓地に建設され、現在中区住吉4丁目町にある忠霊殿には戦没・
戦災死者10857柱が眠っている。
こうして、戦災前の浜松市の人口約187000人だったのが、1945(昭和20)年9月8日に
69298人となった。」
データを見て驚きました。
当時の家屋のうち88%あまりが被災し、戦災前の人口と比べると約40%近くも
人口が減少しています。
この数字を見ただけでも、大変な戦争だったことがわかります。
改めて考えてみれば、これはわずか75年前の出来事だったのですね。
そこから、復興を遂げた先輩方の途方もない努力を想像しますと、現在のコロナ禍も
必ず克服できる!という気持ちを強く持たせて頂きました。