「家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八」
本多忠勝 一言坂の戦いのエピソードを紹介
一言坂の戦いとは?
「家康に過ぎたるものは二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」
この言葉は、敵である武田信玄の近習、小杉左近の落書だそうです。
こう言わしめた本多平八郎忠勝という人物は、どのような人だったのでしょう?
本多忠勝は徳川四天王(酒井忠次、井伊直政、榊原康政、本多忠勝)の一人で
生涯で57回の戦いに参戦、一度も傷を負わなかったと伝えられています。
ちなみに忠勝は「ただ勝つのみ」という意味で付けられたそうですよ。
では、この言葉が生まれた「一言坂の戦い」を見て行きましょう。
一言坂(ひとことさか)というのは、今の磐田市一言にあります。(磐田警察署がある
あたり)国道1号線の坂がそうらしいですね?
そして、三方ヶ原合戦の前哨戦ともいわれるこの戦いの詳細ですが、調べるサイトごとに
内容が異なりますのでどれが正解なのかよくわからないのですが、一番よく出てくる
戦いの内容を記して見ます。
元亀3年(1572)10月13日、3万の大軍を催した武田信玄は、自ら本軍を
率いて遠江に進攻、途上の諸城を次々に屠りながら南下を続け、東海道木原、
西島(袋井市)に布陣して家康の出方を見守りました。
一方の徳川家康は大久保忠世、内藤信成、本多忠勝ら3千の兵を率いて見付(磐田市)に
陣を構えます。無論、決戦のための全力出撃ではなく、名だたる武田軍団をその眼で
捉えておきたかっただけで襲われればすぐに引き上げるつもりでした。
しかし、見付に陣したのも束の間、武田軍の素早い攻撃にあいます。
慌てた家康は、ほうほうの体で見付を引き上げて、一言坂で一息つきますが、
武田軍の追撃は、家康の予想をはるかに超え、早くも馬蹄を轟かせて迫ってきたのです。
このとき、殿軍を自ら引き受けたのが、蜻蛉切りの槍を携えた25歳の
本多平八郎忠勝でした。
この戦いは坂の上にはすでに山県昌景5000が陣取っていて、忠勝は家康が逃げるまで
坂の下で上からの敵を防ぐという難しい戦いを強いられたのです。
しかも、本多隊の退路を阻むために、小杉左近を本多隊の後方(一言坂のさらに下)に
先回りさせ鉄砲を撃ちかけるとという武田軍必勝の策が実行されました。
これに対し、忠勝は、坂の下で待ち受ける小杉隊に敵中突破し逃走を図ります。
これは無謀な突撃で本多隊は死兵でありましたが、左近はこれを迎え撃たず、
道を空けるように指示して本多隊を見逃しました。
このとき、忠勝は左近に名を聞き感謝の言葉を述べたて去って行ったと言われています。
一言坂の戦いの翌朝、本多平八郎の活躍を聞いた武田信玄は、
「小身の家康殿には過ぎたるものよの」と云ったそうです。
これを聞いた信玄の近習小松左近が、
「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」と落書して坂に立てたと
いうのが、この言葉の始まりだそうです。
最後に「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた兜のことで、
中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品でした。
一説に寄れば家康は難破した南蛮船からこれを入手し、愛用していたといいます。