浜松出身 古橋廣之進さん物語 最終回
浜松出身の古橋廣之進さんの生涯をまとめてみました。最終回
魚になるまで泳げ
3回に渡って浜松出身の古橋廣之進さんの生涯をまとめてきましたが、
今回が最終回となります。
歴人マガジンの記事と日本オリンピック委員会のご本人のインタビュー記事をもとに、
古橋廣之進さんの功績を振り返っています。
南米遠征の際に罹ったアメーバ赤痢の後遺症のため、1952年のヘルシンキ
オリンピックで400m自由形で8位という不振に終わり、選手生活も
このシーズンで幕を閉じました。病気のせいとはいえ、さびしい終わり方でした。
選手引退後は、大同毛織(現・ダイドーリミテッド)に入社しました。
入社2年目には、羊毛バイヤーの資格を取るため、オーストラリアの羊毛学校へ
派遣されます。
この在豪経験が買われ、1956年(昭和31年)のメルボルンオリンピックの
水泳チームマネージャーを務めることとなります。
これ以降、(財)日本水泳連盟の役員となり、不振だった水泳界再建の目的で
競泳委員長に就任し、10年計画を作りました。
その最初の成果が、1972(昭和47)年、ミュンヘンオリンピックでの青木まゆみ選手
(100mバタフライ)、田口信教選手(100m平泳ぎ)の金メダルとなって表れます。
ヘルシンキオリンピックから、全ての夏季オリンピックに参加した日本の
オリンピアンは、後にも先にも古橋廣之進ただ一人です。
1966年(昭和41年)からは会社員をやめ、日大の教職について指導にも
当たりました。
また、日本水泳連盟ではその後、会長を1985年~2003年まで務め
国際水泳連盟でも1976年から副会長としての職務を果たしました。
1990年から1999年までは日本オリンピック委員会(JOC)会長として
長野冬季オリンピックの成功に尽力しています。
2009年8月、ローマの国際水泳連盟総会に参加していた廣之進は、現地の
ホテルでひっそりとその生涯を閉じました。80歳でした。
「魚になるまで泳げ」古橋さんの名言です。
100分の1秒の間に世界のトップがひしめいている今、「受身の姿勢ではだめ、
自ら工夫を凝らす自主的なトレーニングが不可欠」と語りました。
メディアに囲まれ、物があふれ、目移りや誘惑の多いこの時代に、
「なによりも大切なことは"集中"することだ」とも。
「ある練習を10回ノーミスでやった。11回、12回と、もっと続ければミスが出たかも
しれないが、10回ノーミスに満足してやめてしまえば、そのことはわからずに終わる。
そのような自己満足が試合で墓穴を掘ることにつながるんです」と。
さすがとしか言いようがない、厳しい古橋さんのお言葉でした。
このような方が、浜松から生まれたことは、まさに郷土の誇りですね。