浜松出身 古橋廣之進さん物語 その3
古橋廣之進の生涯を振り返っています。その3
フジヤマのトビウオの愛称
昨日のブログの続きです。
歴人マガジンの記事と日本オリンピック委員会のご本人のインタビュー記事をもとに、
古橋廣之進さんの功績を振り返ってみます。
1949年(昭和24年)6月、日本水泳連盟は国際水泳連盟に復帰を果たしました。
初の海外遠征が決まり、代表選考を兼ねた日本選手権の結果、日大勢(浜口喜博、
橋爪四郎、丸山茂幸、古橋廣之進)と、早大勢(村山修一、田中純夫)の6選手が
選ばれました。
しかし、アメリカの対日感情はよくありません。
新調のブレザーの胸には日の丸をやめ、日本水連のマークを付けました。
「日本の時計は、周りが遅い」「プールが短い」などと地元の新聞は、
日本の記録にことごとくケチをつける記事を掲載し続けます。
更には「ジャップ」という蔑称で呼ばれていた日本選手たちでしたが、
四日間にわたる大会の初日の予選から新記録を連発すると、たちまちにそれまでの
非礼をわび、「ジャパニーズ」と呼びなおし、廣之進には"フジヤマのトビウオ"の
愛称をつけてくれました。
結局、出場した自由形(リレー含む)6種目中5種目を制し、
延べ9つの世界新で水泳王国アメリカが腰を抜かす大活躍。
廣之進は400m4分33秒3、800m9分35秒5、1,500m18分19秒0で、全て世界新。
800mリレーでも世界新のアンカーを務めました。
ご本人がインタビュー記事で語っています。
「最後のレースを終え、水から上がった私の所へアメリカ人が来て、私の水泳パンツを
指さしました。 通訳に聞いてもらうと、「そのパンツをくれ」。
脱いで渡すと、その下にはいていたフンドシを見て、「それも欲しい」と。
この人はヘルムス・スポーツ記念財団の館長で、あとで連れられていくと
、数多くの有名選手の記念品にまじり、私のフンドシもローマ字の「FUNDOSHI」
という説明つきで展示してあり、びっくりさせられました。」
翌年2月から約3カ月間、全米水泳にでた3人の仲間と南米5カ国を回りました。
ところがその最初の訪問地ブラジルで、私は思いがけない不運に見舞われました。
生水は飲むなといわれていたのですが、ある日、部屋に飲料水が置いてあり、
ボーイが「消毒してある」というので、ついコップに一杯の水を口にしました。
ところがその晩から猛烈な下痢に襲われ、アメーバ赤痢とわかりました。
抗生物質もない時代、公表すれば隔離されてしまうというので、じっと部屋に
閉じこもり、皆の移動についていくのがやっとでした。
しかし、帰国後もその後遺症には長く悩まされました。
以前のようには体がいうことをきかず、その夏の日米対抗大阪大会では880ヤード
自由形でフォード・コンノに敗れました。
宝塚国体以来、5年ぶりの2着。そしてご存知のように1952(昭和27)年のヘルシンキ
オリンピックでも、400m自由形で8位という不振に終わってしまったのです。
その4に続きます。