古橋廣之進さん物語 その2
浜松出身 古橋廣之進さんの生涯をまとめてみました。
幻となったロンドンオリンピックの金メダル
前回に続きまして、歴人マガジンの記事と日本オリンピック委員会のご本人の
インタビュー記事をもとに、古橋廣之進さんの功績を振り返っています。
中学(旧制 浜松二中、現 浜松西高)に進学した廣之進は、2年の夏の県中学大会で
県中学新記録を出し、400m自由形2位となったのを最後に、日本が太平洋戦争に
突入したことで、水泳ができなくなりました。
3年からは勤労動員といって、軍需工場などの仕事に明け暮れる日々が始まり、
戦時下の特例で、中学は4年終了で"繰り上げ卒業"し、日大(理系予科)に入った年の
1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えるまで、同じような状態が続きました。
しかも中3の動員中、歯車に左手を噛まれ、中指を第一関節だけ残して切断する事故に
見舞われました。
すでに水泳どころではない時代でしたが、このけがは手で水を掻くスイマーにとっては
致命的であり、「もう自分の水泳も終わりだな」と思ったそうです。
しかし、終戦で大学に復帰し2年に進んだ春、学友が水泳部員募集の張り紙を見て
私に教えてくれ、それがきっかけで再び廣之進は水に戻ることになりました。
初めての学生大会では、400m自由形と800m自由形で優勝しました。
8月に開催された第1回国民体育大会でも、見事400m自由形で優勝を飾って
います。
この頃の日大には、監督もコーチもおらず、自分で泳ぎを工夫し、練習プランを
立ててやっていました。
特に左手中指のこともあった廣之進は、人一倍の努力が必要で、練習量も
1日2万メートルを泳ぐことも珍しくありませんでした。
戦前から水泳のメッカといわれた明治神宮外苑プールは、戦後、進駐軍の
レクリエーション施設として接収され、「フンドシという野蛮なものをはくから」と、
日本人は出入禁止でした。
しかし、1947(昭和22)年になって、スフという人造織物製の、薄くてペラペラなが
水泳パンツが選手に1枚ずつ配給されたので、「これをはくから」と進駐軍にかけ合い
ここで日本選手権を開催できました。
この大会の400m自由形で、廣之進は準決勝では4分38秒8(長水路の記録を破る)、
決勝では4分38秒4(短水路の記録も破る)と、続けざまに2つの世界新で泳ぎました。
残念ながら日本は国際水泳連盟(FINA)から除名されており、これは公認記録には
なりませんでしたが、スタンドには天皇陛下、皇太子殿下もお見えになっており、
感激した片山哲首相からは、特別に総理大臣杯が贈られました。
翌1948(昭和23)年、戦後初のオリンピック、ロンドン大会にも日本は参加でき
ませんでした。しかし、これを残念に思った(財)日本水泳連盟は、オリンピックの
水泳競技と同じ日程で日本選手権を神宮プールで開催し、記録比べをやったのです。
その結果は、男子の個人5種目中、自由形400mは、1:古橋4分33秒4、2:ウィリアム
スミス(米)4分41秒0、同1,500mは、1:古橋18分37秒0、2:橋爪18分37秒8、3:
ジェームズ・マックレーン(米)19分18秒5。
もし日本が参加できていれば、世界新記録で金メダル2個、銀メダル1個に輝いている
ところでした。
彼らのの記録が伝わると、ロンドンでは信じない人々もいたそうですが、
9月の学生選手権(甲子園)で400mに4分33秒0、800mでも9分41秒0の、ともに
それまでをしのぐ最高記録の世界新で泳ぎ、再び世界に対し記録がフロックでなかった
ことを示しました。
その3へ続く