浜松のヒーロー 古橋廣之進さん物語 その1
郷土出身の英雄 古橋廣之進さんの生涯をまとめてみました。
豆魚雷あらわる!
浜松市民であれば、「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進さんのお名前は、
多くの方が知っていると思います。
子供たちの中には古橋さんのことを知らなくても、篠原町にある
古橋廣之進記念浜松市総合水泳場 ToBiOのことは知っているでしょう。
しかし、意外とどんな人生を歩んだのかまで知ってる方は少ないかも知れません。
実は、私もフジヤマのトビウオと言われた凄い人というくらいで、詳しいことは
存じ上げませんでした。
そこで、長くなるかと思いますが古橋さんの生涯をまとめてみることにしました。
歴人マガジンからの記事と日本オリンピック委員会のご本人のインタビュー記事をもとに
ご紹介します。
古橋廣之進は1928年(昭和3年)静岡県浜松市西区雄踏町に9人兄弟の
3番目で長男として生まれました。
父親は体が大きく、米俵など軽々とかつぐ力持ちで、祭の時など相撲大会に
出るような相撲好きでした。そんな父親に「大きくなったら相撲取りになるか、
それとも奉公に行くか」と言われ、廣之進は奉公に行くよりは相撲、と心に決めて
いました。
ところが彼が小学校4年の時、篤志家が地元のためにと浜名湖畔の一角を板で仕切り、
岸にはスタンドをつけたプールを造ってくれました。
板で仕切られているとはいえ、下の方は海水で魚が流れ込んでくるような簡素な
プールでした。
そのプール開きに廣之進を連れて行った父親が、唐突に「お前も水泳選手にならんか」
と言ったそうです。それが水泳を始めたきっかけになりました。
廣之進のインタビュー記事から
何とか学校の水泳部に入れてもらい、多くの先輩に手取り、足取り泳ぎ方を教えて
もらい、それから夢中になって泳ぎました。
私は毎日、「魚に負けるものか」と、自分が魚になったつもりで泳ぎました。
5年生の春、学校で大掃除中、ポンプのスイッチを入れようとして感電。
右手中指が離れなくなって、あやうく死にかけました。
事実、家には「死んだ」と知らせが飛んだようですが、幸い心臓が強かったので
助かったのだと、あとで教えられました。
それで生まれ変わったわけではないでしょうが、6年になって静岡市で行われた
県大会で、自由形の100mと200mに学童の全国新記録で優勝できました。
これが私の"新記録史"の第1ページでした。翌日の地元紙に私は"豆魚雷あらわる"と
いう見出しで大きく紹介されました。
その2へ続きます。