浜松 堀江城について
堀江城の歴史について
堀江についての講座が開かれます
浜松市民の皆さんは、舘山寺にかつてあった「堀江城」というお城をご存知でしょうか?
ちょうど浜名湖パルパルの大観覧車がある場所に堀江城の本曲輪があったそうです。
(大観覧車のところに案内板があります。)
浜名湖パルパルとホテル九重があった敷地を合わせた全体が堀江城だったと
いうことです。
元々は鎌倉時代に大沢基久が築城したと伝えられています。
大沢氏というのは、中臣鎌足や藤原道長の子孫にあたる名門だそうです。
戦国時代には、子孫の大沢基胤は今川氏が衰退する中も離反せず、徳川家康の
遠江侵攻に抵抗していましたが、最終的には和議を結び、以降は徳川の家臣として
各地の戦場を転戦、数々の武功をあげました。
パルパルトピックスによりますと、、、
”永禄11年(1568年)、徳川家康が三河より引佐町陣屋峠を越えて遠州に侵攻。
堀江城の属城・堀川城と堀江城では多くの戦死者を出した。
葬儀の為、龍潭寺から南渓和尚が訪れ法要を行った。その時の付き添いが次郎法師、
後の井伊直虎であったと伝えられている。”
という逸話もあります。
その後の堀江城は、ウイキペディアによりますと、、、
”三方ヶ原の戦いで勝利した武田信玄が自ら堀江城を攻撃するが、井伊谷衆の支援を
受けた大沢勢の奮闘と天候の悪化によって、4日後に撤退している。
歴史学者の平山優は、堀江城と浜名湖を挟んだ宇津山城が三河国と浜松城を結ぶ
浜名湖水運の拠点であり、三方ヶ原の戦い自体が堀江城を落として浜松城を兵糧攻め
にしようとする武田軍とそれを阻止しようとする徳川軍の戦いであった可能性を
指摘している。
基胤の子、大沢基宿は1550石を与えられ旗本になり、慶長8年(1603年)に高家となり
幕末まで続いた。
だが、明治維新に乗じて不正に石直しを申告して大名になろうと画策して一旦は
成功したものの、廃藩置県後に不正が発覚して処罰された(堀江藩)”
とあります。
このように堀江城というのは、歴史的に見ても非常に重要な拠点でもあったのです。
このお城の方々の奮闘がなければ、今の浜松は全く違った街になっていたかも
知れませんね?
浜松市では、3月に堀江に関しての講座が開かれます。
1.堀江のまちを知る(座学)
日時:3月9日(土曜日)10時00分から12時00分
講師:中央区西行政センター 副参事 鈴木一有
場所:庄内協働センター ホール
座学を庄内協働センターで行います。
詳しくは、こちらです↓
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/w-machi/horienomatiwomeguru.html