浜松の偉人 中村藤吉氏について
中村氏の功績
棒屋って、そこから?
今回は、浜松情報BOOKより一部抜粋させて頂いて、99年前の今日お亡くなりになった
中村藤吉氏について記事にしてみたいと思います。
中村藤吉氏については、「小間物商、事業家。報徳の教えを守り明治年間に巨万の財を
築き、浜松市第一の富豪と言わしめた浜松市財界の偉人。」とあります。
以下抜粋
”1854(安政元)年浜松宿田町(現:中区田町)の棒屋中村商店に誕生した六代目
藤吉は、幼い頃は負けず嫌いのがんばり屋で凝り性。
亡くなった兄のかわりに、幼い頃から跡継ぎとしての精神を教え込まれて育った。
祖先はもともと農家だったが、1569(永禄12)年家康が浜松に城をかまえるとともに
商売をスタート。天秤棒や背負籠などを販売していた。そこから「棒屋」の商名が
生まれた。"
浜松市民の方は、街中で「棒屋パーキング」という看板をいくつも見かけたことが
あると思いますが、こういうことだったんですね?
”六代目となる藤吉は、1873(明治6)年肴町間淵酒屋のはな子と結婚。
1879(明治12)年には浜松町会議員に当選
1887(明治20)年奥山の富幕山に林道を作り、山を買って杉苗を植えた。
1888(明治21)年からは10年かけて、現在の北区引佐町伊平、川名にも杉や松を植え、
1889(明治22)年から1899(明治33)年にかけては、現在の北区都田にも松林を
植えた。
さらに、白脇海岸地区にある耕地の潮水流入問題には、砂浜に松の木を植えて砂堤防を
完成させ、また自費で道路修築や新道開通、橋梁仮設を行った。
1892(明治25)年浜松委托販売会社を同士で設立。
この年には、山葉寅楠の会社設立も応援している。
翌年には1893(明治26)年商業会議所会員となり、1896(明治29)年浜松信用銀行の
設立発起人となり、設立後は取締役に就任した。
この他、マッチや氷砂糖も製造し、現在の東区恒武町に、「遠陽市場」というを設立
して市場発展につとめた。
1902(明治34)年株式会社三十五銀行が誕生した際には取締役就任。
1903(明治35)年浜松商工会議所会頭
1907(明治40)年大日本報徳社役員
1911(明治44)年浜松市会議員等を務め活躍した。
1923(大正12)年7月13日逝去。
子孫は藤吉が1913(大正2)年に設立した中村社団を代々運営し続けている。"
このようにざっと経歴を挙げただけでも凄い方だったのがわかります。
来年は、没後ちょうど100年となりますね?