有玉神社の伝説について
有玉神社の由来 その伝説を紹介します。
なぜ「有玉」というようになったのか?
JR浜松駅から北に約6kmほど行った場所に、有玉神社があります。
この神社の歴史は古く、なぜ「有玉」という名前が付いたのかという伝説が
残っています。
私も大体のところは知っていたのですが、詳しいことまでは知りませんでした。
そんな時に、「積志の流れ今むかし」の中に、わかりやすく書かれたものを
見つけましたので、ご紹介したいと思います。
”昔々、三方原と磐田原の台地にかかえられた、浜名、磐田の二郡は広々とした海で
岩田の海といい、その海岸を袖ヶ浦といいました。
この海には、恐ろしい大蛇が住んでいて、旅の舟に危害を加えていたので村人達は
その不便と恐怖にとまどっていました。
延暦十四年(795年)桓武天皇は坂上田村麻呂将軍に、東国征伐を命じ、
将軍は大軍を率いて、その年の2月1日に三方原の舟岡山に到着しました。
見渡せば岩田の海は波が渦巻いて、実に恐ろしい海でした。将軍は決心して、
近くの潮海寺の薬師観音に大蛇退治の七日の祈願を始めました。
潮海寺の薬師は、かって神功皇后が三韓征伐の折りも、祈願された薬師でありました。
七日目の朝、将軍が参拝に出ようとした時「ご免下さいませ。」
とやさしい若い女の声がしました。
将軍が振り返って見ると美しい女が立っているのでした。
「そちは何者じゃ」
「はい、私はこの近くの村の者です。」
将軍は彼女とよもやま話に時のたつのも忘れて、満願の参拝を破ってしまいました。
それからしばらくして軍は東岸に渡り終えたので、将軍は最後の船で東航し、
女は岸辺まで見送ってきたのでした。
数ヶ月後、将軍は東征の目的を達して勇ましくこの地まで凱旋すると、まっさきに
舟岡山の陣所に走っていきました。
女と再会し、久しく離れていた間のいくさ物語に時のうつるのも忘れてしまいました。
やがて女は、「私は近くお産をします。つきましては、四間四方のすき間なく囲った
産室をたてて下さい。」
将軍はすぐに言う通りの産屋をたててやったのでした。
「では、7日間の間、中を見てはなりません。」
彼女は固くいい置いて、中へ入って鍵を下ろしたのでした。
将軍はそうした女の態度に不審を感じたので、6日目の朝、そっとすき間から見て
しまいました。
「あっ……」
中には意外、大蛇が赤子を中に巻いて、舌でなめ回しているのでした。
将軍はとっさに戸をけ破って入ると大蛇は一瞬にして美しい女に変わったのでした。
「一体お前は何者だ。」
「実は私は、岩田の海に三千年来住む、大蛇でございます。」
「それがまた、なぜ女に。」
「あなた様の薬師様への七日の満願をやめさせたいためでした。それがついに、
あなた様の御子まで生むようになりました。退治することだけはお許し下さいませ。」
「では、岩田の海でのろうぜきは止めてくれ。」
「はい、ついてはこの子供、どうぞお育て下さいませ。それからこの珠は、
この子への母よりの形見、では……」
と言い終えると女は大蛇に化身して、岩田の海深く姿を消したのでした。
それから十余年の後、田村麻呂将軍は、再び東征の軍を進めてきました。
軍中には、かつて大蛇に生ませたへ一子俊光を伴っていました。
舟岡山に着いてみると、岩田の海は昔の通り激しく荒れていてとうてい渡船の出せる
望みはありませんでした。
俊光は、母のいる海と思うと懐かしさに胸のせまる思いがしたのでした。
「父上、私が波を鎮めて見せましょう。」
彼が、母の形見の珠を祈願と共に、海中へ投げ入れると不思議、たちまち海水は引き、
見渡すかぎり干潟となったのでした。
大蛇は天竜川の椎ヶ脇の淵に身を沈めて、再び現れなかったといいます。
この干潟にやがて、人が住み村ができました。ある年、舟岡山の東に毎夜あやしい火が
見えるので、村人達がその光を探してみるとそこに一個の珠があったのでした。
その珠をおまつりしたのが、有玉南町の有玉神社であると言い伝えられています。
そして珠のあったところを有玉と呼ぶことになったと言われています。
田村麻呂将軍をお祭りしてあるのが有玉神社の隣にある俊光将軍社です。
神社の名と祭神が異なるが、解説された古文書はありません。』
「積志の流れ今むかし」浜松市立積志公民館編より引用