椿姫観音と浜松まつりの起源
椿姫観音について
浜松まつりとの関係は?
椿姫 お田鶴の方様とは?
「家康の散歩道」の順路に載っている元浜町にある「椿姫観音」について
調べてみました。
この御堂は、椿姫観音堂と言い御堂の中には、椿姫観音(第四代引馬城主飯尾豊前之守
乗竜 正室 お田鶴の方)が、祭られています。
このお田鶴の方が徳川家康勢に攻撃されたとき、女ながらも懸命に戦い、
侍女たちと共に討死して果てたところといわれています。
なぜ椿姫観音が出来たのか、その歴史を振り返ってみましょう。
戦国時代、この地方は、今川家の領地として、今川家 重臣、飯尾豊前守乗竜が支配し
おりましたが、今川義元が桶狭間の戦いで 織田信長に敗れ戦死すると、
今川家の力は、急速に衰え衰退が始まります。
今川義元から氏真に代が替わると、徳川家康は、今川家の弱体に 目を付け、徳川方に
付くよう何度も要請します。
城内は今川派、徳川派に分裂、今川氏真は、乗竜が、徳川側に付いたとし、今川家に
対する謀反だ! として 引馬城に攻め込みます。
しかし、引馬城は容易に陥落しませんでした。そこで氏真は、策を講じ和睦と見せかけ
乗竜を駿府城に呼び出し暗殺してしまいます。永禄8年(1565年)
引馬城に残されたのは、城主乗竜の嫡男 義廣 その母お田鶴の方(後に乗竜亡き後、
幼い義廣に代わり第五代引馬城主となる)でした。
又とない絶好の時、 家康は、大軍で引馬城に攻め込みます。
引馬城は小城ですが地理的にみてどうしても手に入れたい城でもあります。
軍事力に勝る家康軍を相手に、大奮闘の兵、 しかし武力に勝る家康軍の前には・・
落城寸前のさなか緋縅の鎧に白柄のなぎなた、丈なす黒髪に純白の鉢巻きのお田鶴の方
それを取り巻く、白鉢巻き、たすき掛け、刀を手にした18人の侍女、
主君お田鶴の方を守り壮絶な戦いをしますが、討ち死にしてしまいます。
永禄11年12月24日、の事でした。
女の身でありながら、あっ晴れな最後であり不憫であると家康は、この地に、
お田鶴の方と侍女18人の亡骸を手厚く葬り塚を築き祠を建てました。
家康の正室築山御前も塚の周りに 百本余りの椿の木を植え、供養を営みました。
椿は毎年、美しい花を咲かせ付近の人々この塚を(御台塚)と呼び追悼供養を
捧げました。
その場所はこの御堂より5m位西北、田の中に十坪余りの台地があり其の中に祠と二本
の塔場が建ってた。と云い伝えられています。
この御堂は昭和19年に建立されましたが、戦時中、浜松大空襲で焼け落ち、
昭和27年に再建したものです。
近年は御堂に観音像を祭り、椿姫観音として、 お田鶴の方の遺徳を偲び、冥福祈り、
元浜町の更なる発展と町民の平和な生活を願い毎年11月23日には町内を挙げて
追善供養をしています。
『史跡 椿姫観音堂由来記』より
浜松には直虎以外にも、女城主となり活躍された女性がいるんですね?
(直虎の場合は、男という説もありますが、こちらは正真正銘の女城主です)
さて、浜松まつりとの関係ですが、一説によりますと
この御堂に祭られているお田鶴の方(通称椿姫)と飯尾豊前守乗竜公の嫡男 義廣公
の誕生を城主はじめ城下の人々は一同にこれを祝い、
特に入野村の佐橋甚五郎なる者が嫡男の名前 義廣 と書いた大凧をお城近くで揚げ、
奉祝した。
これが基となり、この地方では、家で嫡男が誕生すると、大凧を揚げ、町を挙げて
お祝いをする風習が生まれた。これが浜松祭の始まりと言われています。
(しかし、これは記録にはなく定かではないそうです。)