徳川家康の逸話 小豆餅と銭取 浜松
小豆餅と銭取という地名の由来
みなさんは、信じてました?
浜松には徳川家康の逸話に由来する地名があります。
有名なのが、「小豆餅(あずきもち)」と「銭取(ぜにとり)」です。
浜松市民ならば、1度は聞いたことのある話だと思いますが、知らない方のために
その逸話を振り返ります。
武田信玄軍と徳川家康軍が三方原(みかたがはら・現在の浜松市北区三方原町近辺)
で激突したのが元亀3年12月22日(1573年1月25日)です。
三方原の戦いに敗れて浜松城へ逃げ帰る途中,徳川家康が小さな茶店で
小豆餅を食べた。ところが,武田軍の追っ手の気配に気付いた家康は,
小豆餅の代金を支払わずに逃げ出した。
その茶店の老婆が「銭を!」と言って徳川家康を追いかけたという伝説。
徳川家康が小豆餅を食べた所が「小豆餅」,老婆が徳川家康を追いかけて
銭をとった所が「銭取」という地名で現在も浜松の地名として残っています。
「小豆餅」や「銭取」というお菓子まであります。
私は、この話を聞いた小学生の頃から「この話はウソだ!」とずっと思ってました。
まあ、むきになることもないのですが、小学生だった私は友達と言い争ったことを
思い出します。(笑)
その頃の私が主張したのは、「小豆餅と銭取の間は、約2㎞ちょっとくらいなのに
馬で逃げる家康におばあちゃんが追いつける訳がない」と。
今みたいにスニーカーじゃなく草履で、2㎞の間に馬に追いつくって、
どんだけ足が速いおばあちゃんなんだって! ウサイン・ボルトでも無理です。(笑)
この説より、現実味のある説は、
「合戦での死者を弔うために小豆餅をお供えしていた説」
「追い剥ぎがよく出る場所で銭を取られた説」等ありますが、
小豆餅の代金を支払ってもらうために走って追いかけた執念深いお婆ちゃんが
いたって方がインパクトあるから多くの浜松市民はそっちを支持してるのかも知れません。
大げさな家康敗走伝説が多いひとつの理由として、徳川家康の浜松在城時代は
戦いにあけくれ領民の年貢や軍役などの負担が多い上、領民のための政策をとる余裕が
無く当地域では旧領主の徳川家康を良く思わない人もいたということもあるでしょう。
ここが、同じく家康ゆかりの駿府(現在の静岡市)と違うところです。
身分上下関係にあまりとらわれない浜松(遠州)人の気質は、ここに始まるとの
考えもあります。