辨天神社にまつわるお話
弁天島の由来は?
弁天島のはじまりは?
3日前のブログで弁天島の大鳥居について少し触れました。
今回は、ついでに弁天島にある辨天神社の由来についても調べてみました。
まず辨天神社の碑にはこんなことが書かれています。
”昔、弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本辺りまで続き、白砂青松「天の橋立」の
ような風景が広がっていました。
そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。
村人は大変喜び、社を立てるからここに留まってほしいとお願いしました。
ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。
それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害にみまわれ、洲崎の一部で
あった弁天は湖(うみ)にとり残されて島となりました。
その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになりましたが、江戸時代の
宝永6年(1709年)今切渡海安全のため、この島に辨天神社が建てられました。
人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきました。
御祭神は「市杵島姫命」といい、海上・交通・家内安全、商売繁盛など諸願成就の
神として多くの人々に信仰されています。
なお、境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原華山、松島十湖の文学碑が
あります。”
碑にもあるように、実は三保の松原の天女さんが最初に舞い降りたのは弁天だったの
です。
ほかにも辨天神社は「天女伝説」や「子宝の松伝説」「白蛇伝説」などがあるそうです。
昔は舞坂宿と新居宿の間は今切を船で渡すという方法がとられており、安全の為に
弁天島北側を航行する航路をとっていましたが、宝永4年(1707年)の宝永地震で
今切渡船は大きな被害を受け松葉屋喜兵衛という人がその復旧工事を請け負った
そうです。
そしてその復旧工事が完了した後、寛永5年(1708年)今切渡船の安全を祈願して
弁天神社が建てられました。
武蔵川越城下仙波村(現:埼玉県川越市)の弁財天がこの松葉屋喜兵衛によって
当地に勧請されたのがはじまりだそうです。
この神社が鎮座したことにより、それまで島は「西野」や「孤島(きつねじま)」と
呼ばれていましたが「弁天島」と呼ばれるようになったということです。
なぜ「きつねじま?」そちらもいつか調べてみたいと思います。