浜松出身の浜松城主 高力忠房
4代目浜松城主 高力忠房とは?
忠房の妻は、、、
徳川家康から始まる浜松城主は、幕末まで全部で26人います。
その中で、親の後を継いで城主になった浜松生まれの城主を除くと純粋な
浜松出身の浜松城主といえば、高力忠房(こうりき ただふさ)だけ?
かも知れません。(もし間違っていたら教えてください。)
高力忠房は、1584(天正12)年に遠江国浜松(現:浜松市)にて生まれています。
父は家康に仕え三方原や長篠などの戦いで手柄をたてた高力正長、母は本多忠俊
の娘。
父が早世したため、祖父・清長に育てらました。
慶長4年、16歳で武蔵岩槻2万石を領する大名となり、翌慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従軍します。
それ以降、二代将軍秀忠から一字を賜って忠長と称し、秀忠に仕えます。
大坂冬の陣では秀忠軍の一員として参戦し、翌年からの大坂夏の陣では土井利勝に
従って奈良で豊臣軍と戦います。
そして、その功績により、元和5年(1619年)に浜松3万石へ加増移封される
のです。
35歳頃でしょうか?
そこから浜松城主として約20年あまり、城下町の町割りや、宿場町としての
機能・財政の整備を行なうなど、非常に治世に長けた人物だったそうです。
秀忠や家光の行なった五社神社・諏訪神社の造営にも力を尽くしています。
その後、3代将軍・徳川家光から島原の乱後の肥前島原4万石へ移封されます。
このとき、家光は忠房を厚く信任していたため、あえて乱後で荒廃している
島原へ移封させて復興に努めさせ、さらに長崎の警備や九州における外様大名の
監視も任せたと言われているそうです。
1655年、12月11日死去。享年72。
ちなみに、忠房の妻は、あの真田幸村の兄である真田信之の娘をもらっています。
そして、その真田信之の妻は、「家康に過ぎたるものは二つあり、唐(から)の
頭(かしら)に本多平八」と言われた本多忠勝の娘です。
この辺がおもしろいですねー。