浜松 彦坂堤のお話
彦坂堤のいわれとは?
松野彦助の伝説
私たちは古代から天竜川と切っても切れない関係にあったことを、氾濫と治水の歴史が
物語っています。
「彦助堤」(浜北区新原)と呼ばれる堤防は、延宝2年(1674年)に大がかりな
築堤工事により築かれました。
この堤防は松野彦助所有の土地に築かれたためその名がつきましたが、
堤防が築かれた際、彦助が人柱の犠牲になったとの伝説も残されています。
浜松これが日本一の浜松七不思議「彦坂堤」より抜粋して、このお話をご紹介します。
”昔,昔の話です。
天竜川は毎年のように堤防をこわし,大あばれしていました。
天竜川沿いの村々はもちろん,年によっては遠く浜名湖まで水びたしになるほどでした。
「このままでは,今年も村は水びたしだ。」
「もう少しで稲刈りができるのに,堤防が切れればそれで終わりだ。」
村人は次々に不安を口にしました。今年こそ丈夫な堤防を作ろうと,
庄屋の松野彦助は殿様に何度もおねがいしました。
せっかく堤防を直すゆるしが出て,費用も出してくれるのに,村人は工事に真剣に
取り組みません。
「そんなことでは,大雨の時期に間に合わないぞ。」
「どうせ直しても,また切れるに決まっている。直してもむだだね。」
彦助と村人の話はいつもこんな具合です。
「ああ,これでは今年もまた稲刈りはあきらめだ。」
彦助が庄屋になってから何年もこんなことが続いていました。
「同じことのくり返しで,今,何とかしなければ村がつぶれてしまう。」
彦助は,村の人たちを集めて,自分の決意を話しました。
「このままでは川沿いの村は全滅だ。それでもいいのか。堤防を守るために私が
人柱になる。人が生きうめになって守れば,千年の間,堤防は切れないという。」
「えっ,庄屋さんが人柱に‥‥‥。」
「村を守るのが私のつとめだ。みんな,後はたのんだぞ。」
彦助は,念仏をとなえながら大きな石を体に結びつけて,川に飛び込みました。
村の人たちは,彦助の思いにこたえようと,一生懸命工事をしました。
みんな,夜を日についで働き,今まで見たこともないじょうぶな堤防を築き上げました
彦助と村の人たちの魂のこもった堤防は,長さが1km以上に及び,
その後の洪水(こうずい)を何度も食いとめました。
おかげで,田んぼの稲をはじめ,畑でも様々な農作物をたくさん作ることが
できるようになりました。
今でもこの時に作った堤防の名残があり,「彦助堤」と呼ばれています。”
浜北区新原に残されている伝説?だそうですが、本当のお話のように思えます。
現在も石碑が残っているそうですよ。